ヤスダ彩

1999 写真家

ハギレ市

ある蒸し暑い日、都内で開催されたフリーマーケットへ行き、その足で手芸店に赴いてハギレ市のコーナーを眺めたとき、なんとなく"あちら側"の人間になったような感覚がして苦い気持ちになった。

 

なんでも綺麗に陳列された街に住んでいるのに、わざわざ雑多な場所を覗き込みに行って、そこから外れた偶然性を探しにいく行為というのは、ただ綺麗に陳列されたものを手に取り続けるよりも更に都会的な行いだと感じる。

 

反対に自分が22歳まで育ったのは、美しい陳列棚などなく、ハギレ市だけがあるような環境だった。数少ない雑多な選択肢を必死にあれこれひっくり返しては、もしかしたらこれが使えるかもしれないとちぐはぐのハギレを引っ掴み、ガタガタと縫い直してやっと人並みのものが作れるかどうか。ハギレの持つ偶然性を楽しむ余裕などある訳がない。それでも時々それを都会の人が覗き込みに来て、なぜだか面白がるので、ただ奇妙だなあと思いながらも、なんとかそのハギレを繋ぎ合わせて1枚の布を生み出すことに必死だった。オシャレやデザインのためにやってるわけではなく、すべては生存戦略でしかなかったのだ。

 

しかし上京して1年経った今、なんでも揃う陳列棚を横目に、わざわざハギレ市のコーナーから何かを見つけ出してやろうとする自分がいる。フリーマーケットに行けば、掘り出し物の古着や素朴でへんてこなプロダクトを見つけてやろうとする自分がいる。"しよう"としているどころではない。明らかに、"してやろう"としている。これは生存のためではない。地元で同じようなことをしていた時とはもう、わけが違うのである。

 

心の奥底で、22歳までの己の集積体が叫ぶ。

 

どうせそのハギレは綺麗な布のアクセントにされ、変わった形をしたノーブランドの古着はセレクトで買った落ちの美しいボトムスに合わされ、おかしな色形のプロダクトもクリーンにデザインされたインテリアの中に配置される。都会において、ハギレ的なものたちはすべて洗練されたものから外れた偶然性という形でありがたがられる。スパイスのように"敢えて"投入される一要素でしかない。それだけでなく、まるで自分たちがそれらの要素を"発見"したかのように振る舞われる。ああ、"発見"できるのは常に権威者側であるという自覚もないままに!

 

これについてはもちろん社会における構造的な不均衡への批判という文脈も大いに持ち合わせているだろうが、誰かに何かを言うほどの気力は今のところ無い(無論ありたくはある)。とにかくわたしは、必死に集めた歪なハギレを縫い合わせ、なんとか1枚の布を生み出してきた人々の顔を、かつての自分の姿を、かんたんに思い出せなくなることが怖い。

 

年始の帰省から東京に戻ってすぐの頃、ある大学にお邪魔する機会があった。そこでは綺麗な紙に、およそ学校と名のつく場所では見たことのないようなフォントが踊っていた。そしてその紙たちは、意匠の塊のようなマグネットで固定されていた。というか見渡す限り全てのものが意匠の塊でしかなかった。私はデザインの寒暖差に眩暈がして、足元のナットしか見られなくなった。ナットもデザインされたものだって?いいんだよ、わたしは車の街で育ったんだから。車の街で、藁半紙と創角英ポップ体に塗れながら育ったんだから。

 

あ〜、いつまでこんなに捻くれているんだろうと自分でも情けなく笑えてくる。でもこの捻くれから解放された頃には、自分の礎にあった筈のいろんなことを忘れてしまうのだろう。そう考えると、まだここで捻くれたまま、足元のナットをじっと見つめていたくなるのだ。