ヤスダ彩

1999 写真家

memo01

今朝ありえない勢いで転んで怪我をし、脚や手が思い通りに動かせなくなってしまった 自分の祖母よりもゆっくりとしか歩けず、リンゴを剥こうにも力が入らない 制御できるはずのものができないと、情けなく悔しい気持ちになる そこから自分の身体のままならなさについて考えていた

 

外傷によって物理的に自分の身体が制御不能となった時のどうしようもなさから、精神的に自分の身体が制御不能となった時のどうしようもなさについて連想する

 

前提として、精神的に身体がままならなくなった/制御不能となった場合、(基本的に)それは決して他者から視認できないものであるため、多くの場合は外傷に比して軽視されやすい傾向にある

 

わたしのような気色の悪い人間は、精神に相当の負担を感じても這いつくばって進み続ける そのため外傷でも発生しない限り、この身体は決して止まらない(止まれない)

 

ここ数日、とある愛すべき重要な他者の、その精神的ままならなさによって発生するであろう感情を何度も想起しては泣いていた この怪我はある意味、外傷でも発生しない限り止まれない自分が、すこしでもそのままならなさを実感するための機会として与えられたものなのかもしれない

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他者の、ままならなさによって発生する感情について、どうしたって自分が追体験/理解できないから怖いのかしらと思っていたが、違うのかもしれない そもそも他者のどんな感情も追体験/理解することが不可能であることは承知しているはずだ それよりも、他者のままならなさによる感情そのものが自分の見えないところで発生しているという事実、そしてそれを他者からの直接的な表明によってしか知ることができないという事実、真っ暗な海のようで、傲慢にもこれがあまりに耐え難かった

 

こんなことでも起こらない限り気が付かない己の愚かしさよ 自分が見落としてきた無数の事象たちについてじっと考える 左脚はまだ曲がらない